2009年03月01日 配信

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船橋が生んだ大実業家、滝口長太郎ってどんな人?

現在の湊町小学校近辺はかつて、海にほど近い漁師町だった。この地に海草専門の漁師の息子として育ったのが、千葉を代表する実業家として有名な故・滝口長太郎である。

敗戦をベトナムで迎え、26歳で復員後に独立を決意。知人から援助金を集め、昭和21年に海草問屋「長太郎商店」を立ち上げたことが出発点だ。次いで魚粉肥料および飼料の製造販売に着手し、32歳のときに長太郎商店を株式会社化している。

彼の事業意欲はめざましく、高度成長期には住宅産業に進出して41年に分譲住宅「長太郎団地」を建設。市川に「長太郎ボウル」を(43年)、西船橋駅前に「長太郎飯店」を擁する「長太郎会館」を(45年)、さらに「長太郎カントリークラブ」をオープンし(54年)、積極的に可能性の幅を広げていった。

ただし華やかにも思える長太郎の歴史は、現実的には苦難と表裏一体であった。海草問屋は資金すらない状態で始めたものだったし、素人の状態からスタートさせた「長太郎団地」も建設後1年で地盤沈下のトラブルに巻き込まれることに。「長太郎飯店」開店時には斬新すぎる発想が非難を呼び、「長太郎カントリークラブ」にいたっては建設反対運動に対する説得と開発認可に6年もの歳月を費やしている。16歳のときに私生児であったことを知らされ、実業家としての絶頂期に脳溢血で倒れ、同時期に次男を白血病で失うなど、私生活も困難続きだった。

では、なぜ長太郎は相次ぐ苦難を越えることができたのか? その答えは、「長太郎商店」を立ち上げた際にひらめいたという信条、「打つ手は無限だ」に集約される。逃げ道がなくても「必ずなんとかなる」と念じていれば妙案が浮かび、それを実行すればやがて結果に結びつくという考え方だ。事実、ここに記してきた実積すべてが、その根拠としての説得力を持っている。現在の不況を乗り越えるためのヒントが、この言葉の裏側に隠れているとはいえないだろうか。

ところで長太郎には、もうひとつの重要な功績がある。「朝の集い」出席を契機に早起きの効能に開眼し、倫理研究所市川支所船橋実践部に入会。それが「経営者向けの勉強の場を」という思いに至り、昭和55年に全国初の倫理法人会「千葉県倫理法人会」を設立したのだ。長太郎は平成4年に逝去したが、生前の努力のかいあって倫理法人会の輪は現在も全国に広がっている。

※この記事に記載の情報は取材日時点での情報となります。
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