2013年11月01日 配信

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第十二歩:宝成寺と葛羅之井

葛飾神社の少し市川寄りを北に曲り踏切を越えると、左に宝成寺(西船6-2-30)がある。
この一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代の初期は成瀬氏が治めていた。奥の墓地に成瀬正まさなが寿の巨大な墓石がある。
更に北へ進むと道路の右に堂々とした欅の巨木が現れる。船橋で最大の欅けやきである。奥に石碑と井戸「葛羅之井」がある。
戦後、永井荷風が市川の住まいから海神まで、この辺りを散歩していた事を随筆「葛飾土産」に書く。
荷風は宣伝広告が貼られた石碑の、僅かに露出していた文字が気になった。傍の井戸でハンカチを濡らし石碑をきれいにすると、現れた碑文と筆跡は案の定、江戸の狂歌師「大田南畝」揮毫のものであった。
後日、これが新聞に掲載され葛羅之井は一躍有名となる。石碑の文面に「豊姫が鏡とする所…」とある。大田南畝は井戸の水鏡や傍の欅に、海神の魚鱗宮の豊玉姫と木の上の山幸彦のことを、想い描いたのだろうか。

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第十二歩:宝成寺と葛羅之井

葛飾神社の少し市川寄りを北に曲り踏切を越えると、左に宝成寺(西船6-2-30 )がある。
この一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代の初期は成瀬氏が治めていた。奥の墓地に成瀬正寿の巨大な墓石がある。
更に北へ進むと道路の右に堂々とした欅の巨木が現れる。船橋で最大の欅けやきである。奥に石碑と井戸「葛羅之井」がある。
戦後、永井荷風が市川の住まいから海神まで、この辺りを散歩していた事を随筆「葛飾土産」に書く。
荷風は宣伝広告が貼られた石碑の、僅かに露出していた文字が気になった。傍の井戸でハンカチを濡らし石碑をきれいにすると、現れた碑文と筆跡は案の定、江戸の狂歌師「大田南畝」揮毫のものであった。
後日、これが新聞に掲載され葛羅之井は一躍有名となる。石碑の文面に「豊姫が鏡とする所…」とある。大田南畝は井戸の水鏡や傍の欅に、海神の魚鱗宮の豊玉姫と木の上の山幸彦のことを、想い描いたのだろうか。

 

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