2009年08月01日 配信

aoki1.jpg宮本の地で60年あまり。
船橋の変化をみつめる
竹細工職人。

大神宮下の駅から程近い船橋大神宮のすぐ目前に青木竹工はある。近年の和ブームによって若者も数多く集うお店を一人で切り盛りするのは竹細工職人の青木福子さん。

宮本に住むようになったのは
青木竹工に嫁いでから。

福子さんが現在の宮本に住むようになったのは終戦直後の昭和21年。23歳の福子さんは、竹細工職人として関東一円に名を馳せていた『青木竹工』の次男『青木操』さんとお見合いの末、青木家に嫁いだ。当時の青木竹工は操さんの腕を聞き付け、向島百花園などからの仕事も一手に引き受けるほどの盛況振りだった。

ところが、昭和40年代に入ると巷にはプラスチックが登場した。「これまで入れ物といえばほぼ全てが竹籠だったのがみんなプラスチックに代わっていった。市内に20数件あった『かご屋』も次々と閉店に追い込まれ、現在市内に残った職人のいるかご屋も3件ほどしかないの」と福子さんは言う。

昭和40年代まではどこの家庭でも使っていた竹かごだが、プラスチックの普及によってその数も激減。職人たちもみんな職換えをし、最盛期には職人3人、奉公人1人を抱えていた青木竹工も夫婦ふたりで営むようになる。

しかし名工の誉れが高かった操さんには、次々と仕事が舞い込んで、千葉そごうで開催されている『房総の工芸展』への出展や、『大多喜県民の森』設立の際には、竹製品を寄贈し、礼状を受け取るなど大いに活躍をする。

毎日17時には店を閉めて
本町通りを中心に船橋の町を散歩

操さんは平成5年に逝去。現在は一人で店を切り盛りする福子さんは、店を17時には閉め船橋の街を歩く。最初は、健康のためだった散歩も、今では街が徐々に変わってゆく様子を見るのが楽しみになっているという。

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※この記事に記載の情報は取材日時点での情報となります。
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