『船橋の民話』の著者である村上昭三さんと、葛飾小などで民話を語り継ぐ活動をしている田中由喜子さんに、船橋の民話について語ってもらった。
民話は心の保養所、民話は文化
【村上】民話とは多くの人々によって何代も何代も語り継がれたものであり、これを聞く人を心底から和ませる力を持っているものです。わたしが集めた民話は、すべて市内の農家の方々に直接会って話を聞いた、船橋の地元に代々話継がれてきたものばかりです。
【田中】そうですね。わたしは村上先生がご自分の足で集められた話を自分のものにして、それを市内各地の小学校で子どもたちに語っています。本当の地元の話ですよね。民話を通して自分の故郷がどうだったのか、昔の暮らしぶりはどんなだったのかに想いを馳せてほしいと思っています。
【村上】民話は心の保養所、民話は文化だと思っています。現代の「物の時代」下での「心の時代」を考える上でも、大事にしたい文化だと思います。
【田中】本当にそう思います。「藁ぶき屋根に夕食の煙がたって、みんなそろってのどかに暮らしている」という情景が浮かんでくるようなフレーズがたくさんあります。かつては船橋も狐や蛇がでてくるような場所だったんだよと子どもたちに話をすると「へ~」と驚いていますよ。今の子どもたちは聞く力が欠けていると心配されていますが、絵もない語りだけの世界でも、とても集中して聞いてくれてますよ。
船橋の民話と言えば 重右衛門
【村上】船橋の民話といえば、重右衛門という人物の話がたくさん残っていますね。印内の人々の間では、江戸時代の大岡越前守が奉行として活躍していた頃に下総国葛飾印内に実際に住んでいたと伝えられています。
【田中】それで「印内の重右衛門」と語り継がれていますね。方々へ奉公に出てもどこも長続きしなかったんですよ。
【村上】重右衛門は立派な人物というより、怠け者でへそ曲がりで有名だったということです。
【田中】昔はちょっといたずらしている子などを頭ごなしに叱るのではなく、そんなことをしていると重右衛門さんになっちゃうぞ!と、隠喩的にたしなめることができたんですよ。余裕がありましたよね。重右衛門は決して立派な人物ではなかったけれど、そうやって人々の生活に根ざして愛されていたんですね。
【村上】ただ、今の笑い話がそのまま伝えられてきたわけではなく、村の寄り合いや夏祭りなどでおもしろおかしく脚色されていったんでしょうね。
【印内の重右衛門話の看板】
印内2丁目の「印内」バス停の側にある看板。船橋市教育委員会と話を進めて設置に至った。
「重右衛門の証文」が掲載されている。
【知っておきたい民話1/エリア 印内】 怠け者の弁当 |
印内の重右衛門が北方村で働いているとき、下の田んぼを耕うよう言われたのでおいしい弁当を頼むと「特別、白いまんまだよ。この弁当だけでも田んぼを耕うことができるよ」とおかみさん。重右衛門は弁当を鍬の柄にくくりつけ寝転んでいました。 |
【知っておきたい民話2/エリア 大神宮】 大神宮の大相撲 |
大神宮で行われている相撲大会のはじまりは、このように伝えられています。鷹狩りを好んだ徳川家康が、狩りをしに東金へ向かうため、船橋に御殿を建てました。 |
【知っておきたい民話3/エリア 西船橋】 長州の伝吉狐 |
昔、本郷村の「長州」に「伝吉」という嫁入りの化かしが大変上手な古狐が棲んでいました。伝吉狐の嫁入り行を村人は楽しみにしていたので、「おはこの嫁入り行列を見せておくれ」と頼みました。 |
【知っておきたい民話4/エリア 高根】 高根の唐沢松 |
昔、高根村・唐沢に唐沢松というご神木がありました。しかし暴風雨で折れてしまいました。ある日、名主に命じられた男が根元から伐り始めると、なんと、中から赤い血が…。恐怖で男は寝込んでしまい、松の祟りの噂が流れました。 |
【知っておきたい民話5/エリア 大神宮】 船橋の名前の由来 |
大神宮が今の場所にご奉祀された頃、今の海老川は太日川と呼ばれ、川幅は広く、現在の三倍近くもあったそうです。たくさんの旅人が訪れていましたが、川幅が広くて橋を架けることができず、渡し船を使っていました。しかし往来する人が増えたため、「船の橋を作ろう」と、何艘もの船を数珠繋ぎに並べ、その上に板を敷きました。 |
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