2009年04月01日 配信

 多くの経験と貴重な教訓に出会う

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船橋福祉相談協議会

ふらっと船橋

宮尾 修

筆者が船橋の住民になったのは、今から63年前の1945(昭和20)年の9月である。戦火に追われて疎開した信州から移ってきたのだが、街灯もない真っ暗な中をやっと家にたどり着いたのを憶えている。

四肢マヒの障害児で産まれた筆者は、その頃もまったく歩けなかった。だからこのときも父に背負われて疎開先から戻ったのだが、空襲で何もかも焼かれた一家には食事の茶碗も満足になかった。そしてそこから始まった戦後の生活は飢えを凌ぐのに精一杯で、筆者の日常はその後10数年にわたって家の中にしかなかった。

今では嘘のような話になるが、筆者が戦後初めて東京に行ったのは1962(昭和37)年である。親交のあった知人がドライブに誘ってくれたのだが、この時代になると世の中は高度経済成長が始まり、家にもTVや電話が置かれるようになっていた。だがそうなっても福祉は名ばかりで、まだ手動の車いすもなかった記憶がある。マイカーが多くなりだし、車を使えば遠くへも行ける希望は持つようになったが、バスや電車に乗っての外出などはまだとても考えられなかった。歩行不能者は外出不可と社会が思っていただけでなく、障害者自身もそう思っていたのである。

1966(昭和41)年6月、筆者はサポーターの健常者を含めた地域の身体障害者グループ「羊の声」を旗揚げした。まったく一人での行動だったが、朝日新聞の地方版に紹介記事が出たことから大勢集まり、数年後にはレクの催しや合宿の集会までできるようになった。催しでは当時最盛期だったヘルスセンターのプールに行ったことがあり、合宿では船橋県民の森でキャンプを行なったこともある。

時代も変わり目がきて、高度成長のひずみによる公害問題が多発、底辺の存在である障害者にも光が当てられて、猫も杓子も〈福祉〉を口にするようになっていた。やがて1981年の国際障害者年があり、国連による〈完全参加と平等〉の理念、デンマークの運動家が唱えたノーマライゼーションの考え方などの影響で、どういう障害者も地域で自立生活をする権利があるという活動が広がっていった。

その間には船橋市も大きく変化し、最初は段がある会合場所しかなかったのが、中央公民館、女性センター、勤労市民センターとバリアフリーの建物がつぎつぎできていった。 

そして筆者の人生もこういう時の流れとともに動き、結婚、2人の男児の誕生その成長と進む中で、多くの経験と貴重な教訓に出会った。その1つが自立生活センターの10年であり、1つがこの3月で退く相談窓口「ふらっと船橋」の2年6カ月である。

80年代に米国から入った障害者の自立生活運動が全国に拡がり、その1つとして船橋障害者自立生活センターが誕生したのは1991(平成2)年である。その中心になった杉井和男さんと山本明さんが「羊の声」のメンバーだったのが縁で、筆者もそこに加わることになり、92年からその代表を10年間務めた。自立生活センターは障害者の自己選択、自己決定自己責任の実践をモットーにした団体で、杉井さんと山本さんは実際に地域で暮らすことでそのモットーの体現者になったが、この頃になると末端の行政も大きく変わり、地域重視、当事者尊重の施策も出てきた。中核市になったためもあるだろうが、船橋市による重度障害者介護人派遣制度、身体障害者生活支援制度の創設と自立生活センターへの委託など、先駆的で特色のある施策が行なわれている。

だがそれでも車いす障害者の活動は容易ではない。事務所も資金もなかった自立センターが、小さくも事務所を持てたのは株式会社「住研」の多田会長とめぐり遇ったことによる。多田さんは今や本誌の支援者でもあるが、当時からボランティア精神に溢れた方で最初の事務所だけでなく現在の事務所に移転のときも、さらにはこの3月まで筆者の在職した「ふらっと船橋」の開設のときも、物件捜しその他多大のお世話になっている。この機会に誌上を借りて厚くお礼申し上げたい。

2006(平成18)年10月、障害者自立支援法に基づく障害者綜合相談支援窓口として、「ふらっと船橋」は開設された。それまで身体、知的、精神の障害別だったのを1つにしたもので、運営は関係14団体等による船橋福祉相談協議会。経費は市の負担という委託形態で、職員7名で活動している。時が経つのは速い。あっという間に2年余が過ぎ、筆者も75歳で退くことになったが、相談支援窓口の重要性とそれに対する期待は今後も強まるばかりだろう。平成21年度も変わらぬ姿勢で活動を続けるが、こうした仕事は社会全体の理解や協力が必要である。読者市民皆様のご支援をお願いいたします。

福祉の現場についての現状は船橋障害者自立生活センターの杉井和男さんにバトンタッチしたい。

筆者が船橋の住民になったのは、今から63年前の1945(昭和20)年の9月である。戦火に追われて疎開した信州から移ってきたのだが、街灯もない真っ暗な中をやっと家にたどり着いたのを憶えている。

四肢マヒの障害児で産まれた筆者は、その頃もまったく歩けなかった。だからこのときも父に背負われて疎開先から戻ったのだが、空襲で何もかも焼かれた一家には食事の茶碗も満足になかった。そしてそこから始まった戦後の生活は飢えを凌ぐのに精一杯で、筆者の日常はその後10数年にわたって家の中にしかなかった。

今では嘘のような話になるが、筆者が戦後初めて東京に行ったのは1962(昭和37)年である。親交のあった知人がドライブに誘ってくれたのだが、この時代になると世の中は高度経済成長が始まり、家にもTVや電話が置かれるようになっていた。だがそうなっても福祉は名ばかりで、まだ手動の車いすもなかった記憶がある。マイカーが多くなりだし、車を使えば遠くへも行ける希望は持つようになったが、バスや電車に乗っての外出などはまだとても考えられなかった。歩行不能者は外出不可と社会が思っていた

だけでなく、障害者自身もそう思っていたのである。

1966(昭和41)年6月、筆者はサポーターの健常者を含めた地域の身体障害者グループ「羊の声」を旗揚げした。まったく一人での行動だったが、朝日新聞の地方版に紹介記事が出たことから大勢集まり、数年後にはレクの催しや合宿の集会までできるようになった。催しでは当時最盛期だったヘルスセンターのプールに行ったことがあり、合宿では船橋県民の森でキャンプを行なったこともある。

時代も変わり目がきて、高度成長のひずみによる公害問題が多発、底辺の存在である障害者にも光が当てられて、猫も杓子も〈福祉〉を口にするようになっていた。やがて1981年の国際障害者年があり、国連による〈完全参加と平等〉の理念、デンマークの運動家が唱えたノーマライゼーションの考え方などの影響で、どういう障害者も地域で自立生活をする権利があるという活動が広がっていった。

その間には船橋市も大きく変化し、最初は段がある会合場所しかなかったのが、中央公民館、女性センター、勤労市民センターとバリアフリーの建物がつぎつぎできていった。 

そして筆者の人生もこういう時の流れとともに動き、結婚、2人の男児の誕生その成長と進む中で、多くの経験と貴重な教訓に出会った。その1つが自立生活センターの10年であり、1つがこの3月で退く相談窓口「ふらっと船橋」の2年6カ月である。

80年代に米国から入った障害者の自立生活運動が全国に拡がり、その1つとして船橋障害者自立生活センターが誕生したのは1991(平成2)年である。その中心になった杉井和男さんと山本明さんが「羊の声」のメンバーだったのが縁で、筆者もそこに加わることになり、92年からその代表を10年間務めた。自立生活センターは障害者の自己選択、自己決定自己責任の実践をモットーにした団体で、杉井さんと山本さんは実際に地域で暮らすことでそのモットーの体現者になったが、この頃になると末端の行政も大きく変わり、地域重視、当事者尊重の施策も出てきた。中核市になったためもあるだろうが、船橋市による重度障害者介護人派遣制度、身体障害者生活支援制度の創設と自立生活センターへの委託など、先駆的で特色のある施策が行なわれている。

だがそれでも車いす障害者の活動は容易ではない。事務所も資金もなかった自

立センターが、小さくも事務所を持てたのは株式会社「住研」の多田会長とめぐり遇ったことによる。多田さんは今や本誌の支援者でもあるが、当時からボランティア精神に溢れた方で最初の事務所だけでなく現在の事務所に移転のときも、さらにはこの3月まで筆者の在職した「ふらっと船橋」の開設のときも、物件捜しその他多大のお世話になっている。この機会に誌上を借りて厚くお礼申し上げたい。

2006(平成18)年10月、障害者自立支援法に基づく障害者綜合相談支援窓口として、「ふらっと船橋」は開設された。それまで身体、知的、精神の障害別だったのを1つにしたもので、運営は関係14団体等による船橋福祉相談協議会。経費は市の負担という委託形態で、職員7名で活動している。時が経つのは速い。あっという間に2年余が過ぎ、筆者も75歳で退くことになったが、相談支援窓口の重要性とそれに対する期待は今後も強まるばかりだろう。平成21年度も変わらぬ姿勢で活動を続けるが、こうした仕事は社会全体の理解や協力が必要である。読者市民皆様のご支援をお願いいたします。

福祉の現場についての現状は船橋障害者自立生活センターの杉井和男さんにバトンタッチしたい。

筆者が船橋の住民になったのは、今から63年前の1945(昭和20)年の9月である。戦火に追われて疎開した信州から移ってきたのだが、街灯もない真っ暗な中をやっと家にたどり着いたのを憶えている。

四肢マヒの障害児で産まれた筆者は、その頃もまったく歩けなかった。だからこのときも父に背負われて疎開先から戻ったのだが、空襲で何もかも焼かれた一家には食事の茶碗も満足になかった。そしてそこから始まった戦後の生活は飢えを凌ぐのに精一杯で、筆者の日常はその後10数年にわたって家の中にしかなかった。

今では嘘のような話になるが、筆者が戦後初めて東京に行ったのは1962(昭和37)年である。親交のあった知人がドライブに誘ってくれたのだが、この時代になると世の中は高度経済成長が始まり、家にもTVや電話が置かれるようになっていた。だがそうなっても福祉は名ばかりで、まだ手動の車いすもなかった記憶がある。マイカーが多くなりだし、車を使えば遠くへも行ける希望は持つようになったが、バスや電車に乗っての外出などはまだとても考えられなかった。歩行不能者は外出不可と社会が思っていただけでなく、障害者自身もそう思っていたのである。

1966(昭和41)年6月、筆者はサポーターの健常者を含めた地域の身体障害者グループ「羊の声」を旗揚げした。まったく一人での行動だったが、朝日新聞の地方版に紹介記事が出たことから大勢集まり、数年後にはレクの催しや合宿の集会までできるようになった。催しでは当時最盛期だったヘルスセンターのプールに行ったことがあり、合宿では船橋県民の森でキャンプを行なったこともある。

時代も変わり目がきて、高度成長のひずみによる公害問題が多発、底辺の存在である障害者にも光が当てられて、猫も杓子も〈福祉〉を口にするようになっていた。やがて1981年の国際障害者年があり、国連による〈完全参加と平等〉の理念、デンマークの運動家が唱えたノーマライゼーションの考え方などの影響で、どういう障害者も地域で自立生活をする権利があるという活動が広がっていった。

その間には船橋市も大きく変化し、最初は段がある会合場所しかなかったのが、中央公民館、女性センター、勤労市民センターとバリアフリーの建物がつぎつぎできていった。 

そして筆者の人生もこういう時の流れとともに動き、結婚、2人の男児の誕生その成長と進む中で、多くの経験と貴重な教訓に出会った。その1つが自立生活センターの10年であり、1つがこの3月で退く相談窓口「ふらっと船橋」の2年6カ月である。

80年代に米国から入った障害者の自立生活運動が全国に拡がり、その1つとして船橋障害者自立生活センターが誕生したのは1991(平成2)年である。その中心になった杉井和男さんと山本明さんが「羊の声」のメンバーだったのが縁で、筆者もそこに加わることになり、92年からその代表を10年間務めた。自立生活センターは障害者の自己選択、自己決定自己責任の実践をモットーにした団体で、杉井さんと山本さんは実際に地域で暮らすことでそのモットーの体現者になったが、この頃になると末端の行政も大きく変わり、地域重視、当事者尊重の施策も出てきた。中核市になったためもあるだろうが、船橋市による重度障害者介護人派遣制度、身体障害者生活支援制度の創設と自立生活センターへの委託など、先駆的で特色のある施策が行なわれている。

だがそれでも車いす障害者の活動は容易ではない。事務所も資金もなかった自立センターが、小さくも事務所を持てたのは株式会社「住研」の多田会長とめぐり遇ったことによる。多田さんは今や本誌の支援者でもあるが、当時からボランティア精神に溢れた方で最初の事務所だけでなく現在の事務所に移転のときも、さらにはこの3月まで筆者の在職した「ふらっと船橋」の開設のときも、物件捜しその他多大のお世話になっている。この機会に誌上を借りて厚くお礼申し上げたい。

2006(平成18)年10月、障害者自立支援法に基づく障害者綜合相談支援窓口として、「ふらっと船橋」は開設された。それまで身体、知的、精神の障害別だったのを1つにしたもので、運営は関係14団体等による船橋福祉相談協議会。経費は市の負担という委託形態で、職員7名で活動している。時が経つのは速い。あっという間に2年余が過ぎ、筆者も75歳で退くことになったが、相談支援窓口の重要性とそれに対する期待は今後も強まるばかりだろう。平成21年度も変わらぬ姿勢で活動を続けるが、こうした仕事は社会全体の理解や協力が必要である。読者市民皆様のご支援をお願いいたします。

福祉の現場についての現状は船橋障害者自立生活センターの杉井和男さんにバトンタッチしたい。

筆者が船橋の住民になったのは、今から63年前の1945(昭和20)年の9月である。戦火に追われて疎開した信州から移ってきたのだが、街灯もない真っ暗な中をやっと家にたどり着いたのを憶えている。

四肢マヒの障害児で産まれた筆者は、その頃もまったく歩けなかった。だからこのときも父に背負われて疎開先から戻ったのだが、空襲で何もかも焼かれた一家には食事の茶碗も満足になかった。そしてそこから始まった戦後の生活は飢えを凌ぐのに精一杯で、筆者の日常はその後10数年にわたって家の中にしかなかった。

今では嘘のような話になるが、筆者が戦後初めて東京に行ったのは1962(昭和37)年である。親交のあった知人がドライブに誘ってくれたのだが、この時代になると世の中は高度経済成長が始まり、家にもTVや電話が置かれるようになっていた。だがそうなっても福祉は名ばかりで、まだ手動の車いすもなかった記憶がある。マイカーが多くなりだし、車を使えば遠くへも行ける希望は持つようになったが、バスや電車に乗っての外出などはまだとても考えられなかった。歩行不能者は外出不可と社会が思っていただけでなく、障害者自身もそう思っていたのである。

1966(昭和41)年6月、筆者はサポーターの健常者を含めた地域の身体障害者グループ「羊の声」を旗揚げした。まったく一人での行動だったが、朝日新聞の地方版に紹介記事が出たことから大勢集まり、数年後にはレクの催しや合宿の集会までできるようになった。催しでは当時最盛期だったヘルスセンターのプールに行ったことがあり、合宿では船橋県民の森でキャンプを行なったこともある。

時代も変わり目がきて、高度成長のひずみによる公害問題が多発、底辺の存在である障害者にも光が当てられて、猫も杓子も〈福祉〉を口にするようになっていた。やがて1981年の国際障害者年があり、国連による〈完全参加と平等〉の理念、デンマークの運動家が唱えたノーマライゼーションの考え方などの影響で、どういう障害者も地域で自立生活をする権利があるという活動が広がっていった。

その間には船橋市も大きく変化し、最初は段がある会合場所しかなかったのが、中央公民館、女性センター、勤労市民センターとバリアフリーの建物がつぎつぎできていった。 

そして筆者の人生もこういう時の流れとともに動き、結婚、2人の男児の誕生その成長と進む中で、多くの経験と貴重な教訓に出会った。その1つが自立生活センターの10年であり、1つがこの3月で退く相談窓口「ふらっと船橋」の2年6カ月である。

80年代に米国から入った障害者の自立生活運動が全国に拡がり、その1つとして船橋障害者自立生活センターが誕生したのは1991(平成2)年である。その中心になった杉井和男さんと山本明さんが「羊の声」のメンバーだったのが縁で、筆者もそこに加わることになり、92年からその代表を10年間務めた。自立生活センターは障害者の自己選択、自己決定自己責任の実践をモットーにした団体で、杉井さんと山本さんは実際に地域で暮らすことでそのモットーの体現者になったが、この頃になると末端の行政も大きく変わり、地域重視、当事者尊重の施策も出てきた。中核市になったためもあるだろうが、船橋市による重度障害者介護人派遣制度、身体障害者生活支援制度の創設と自立生活センターへの委託など、先駆的で特色のある施策が行なわれている。

だがそれでも車いす障害者の活動は容易ではない。事務所も資金もなかった自

立センターが、小さくも事務所を持てたのは株式会社「住研」の多田会長とめぐり遇ったことによる。多田さんは今や本誌の支援者でもあるが、当時からボランティア精神に溢れた方で最初の事務所だけでなく現在の事務所に移転のときも、さらにはこの3月まで筆者の在職した「ふらっと船橋」の開設のときも、物件捜しその他多大のお世話になっている。この機会に誌上を借りて厚くお礼申し上げたい。

2006(平成18)年10月、障害者自立支援法に基づく障害者綜合相談支援窓口として、「ふらっと船橋」は開設された。それまで身体、知的、精神の障害別だったのを1つにしたもので、運営は関係14団体等による船橋福祉相談協議会。経費は市の負担という委託形態で、職員7名で活動している。時が経つのは速い。あっという間に2年余が過ぎ、筆者も75歳で退くことになったが、相談支援窓口の重要性とそれに対する期待は今後も強まるばかりだろう。平成21年度も変わらぬ姿勢で活動を続けるが、こうした仕事は社会全体の理解や協力が必要である。読者市民皆様のご支援をお願いいたします。

福祉の現場についての現状は船橋障害者自立生活センターの杉井和男さんにバトンタッチしたい。

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